あいつ何してる? VOL.39【昭和59年卒 上野敏夫先輩】

 昭和62年卒の高松誠先輩(付き人)から四年生へのバトンです。涙が出るほど懐かしい学生時代のお話しや、卒業後の来し方行く末のお話しが満載です。

以下、上野先輩のご寄稿です。

 前回の「あいつ、何してる?」を書いた高松は私の付き人でした。卒業した後も私の住んだ四畳半アパートに住み、私がよく飲ませてもらったお向かいのFさんというおじさんとの付き合いも引き継いでくれました。40年の時を経て、今度は、高松からバトンを引き継ぐことになりました。

現役時代の高松君と私

「大学生、治外法権」の時代

 一年の秋のことです。大阪で行われる全日本の応援のため、東京駅八重洲口で夜行バスを待っていました。いつものようにたばこを吸いながら、ダラダラしていると、若い警察官に職務質問を受けました。今なら完全アウトですよね?ところが私たちは「オレたち大学生だよ、何が悪いの?」的態度で若い警察官に対しました。この警察官も剣道をやっているらしく「立教の剣道部か!土井っているでしょ?」と言います。何でも同期の土井とは少年時代からのライバルだったそうなのです。(この若い警察官、後の八段選優勝者、恩田浩司先生でした。)

警察官より態度がでかい私たち

「飯食って(酒飲んで)剣道」の現役時代

 島岡先輩が宴会で「日曜日は飯食って剣道…月曜日も…火曜日は…水曜日も…木曜日は…金曜日も…土曜日は飯食って剣道!友だちよ、これが私の一週間の仕事です…」と歌い「チュリャチュラ」踊っていましたが、私の学生時代生活の中心はまさに剣道部でした。

 稽古や雑用も辛かったのですが、上下関係も大変でした。1,2年の頃、同期と酒を飲んでは「○○先輩、信じられねーヨ!」と愚痴ったものです。

雑用も大変だった
稽古の後、よく飲みました(まさしげにて)

 1年の秋だったでしょうか。ハイキング(今もあるのかなあ?)で長瀞へ行った時のことです。磯野先輩、青木先輩と足こぎボートに乗船しました。「上野-!アヒル(だったか鴨だったか…)に負けるんじゃないよ-!追い越すんだよー!」と磯野先輩。「気合いが足りない。声が出てない」と青木先輩。スクワット一気飲み、三角飲みなどでたくさん飲ませて頂いたあとですから大変です。「ファイトファイトファイト-!」と大声を出しながら、アヒルに挑みましたが、私のことなど眼中にないアヒルに見事な二本負けを喫しました。マジなのか洒落なのか分からない思い出です。

磯野先輩、青木先輩との思い出の一枚

防具をかついで出稽古

 2年のオフからだったでしょうか。同期の板東と富坂にあった警視庁の道場に通いました。一つ下の坂西ともよく出稽古にも行きました。坂西が「稽古内容を記録すると良いッスヨ!」と教えてくれて付け始めた剣道ノートの表紙に「腐らずあきらめず頑張る」とマジックで記したことを思い出します。ノートは何冊にもなり、腐らずあきらめず頑張ったつもりでしたが、結局、強くもなれず、試合にも出られず私の4年間は終わりました。

 挫折と悔しさでいっぱいで迎えた追い出しコンパの時、地福義彦先生にお酌に行きました。「試合に出たかったです」と私が言うと先生は困ったように私を見て「上野は努力してすばらしい剣道を手に入れたんだ。それ以上何が必要なんだ?」と言われました。

 地福先生にやっとお礼を述べ、自分の席に戻ると、付き人をしてくれた二つ下の山田と高松が「先輩、いつまでじっちゃんと話してるんですか?!自分たちずっと待ってたんですヨ!」とプレゼントを用意して待っていてくれました。もっと大切しなければならないことがあったのです。

小学校教員時代

 大学時代、「勝ち負けにこだわりすぎる」と人間卑屈になり、大切な物を見失うことを学んだ私は、子どもたちを競争させない教員でありたいと東京大田区、新宿区で22年、郷里の長野県に帰って18年小学校で過ごしました。学生時代の「治外法権」的経験や「信じられねー」経験を積み重ねてきたので、私は学校のしきたりや決まりに全く興味は無く、教科書も使わず、時間割も守らず、宿題もない教室で子どもたちとハッピーに過ごしました。

 長野県のとある学校で、6年生の子どもたちと一年間、カヌーにチャレンジしました。川面をカヌーで静かに進むと水鳥と同じ目線に立つことができます。私たちの近くを泳いでいた鳥が急に飛び立ちました。だんだん自分たちが自然の中に溶け込んでいく感じがしてきます。普段見慣れた景色が違ったものに感じられます。子どもたちからも「鳥になったみたいだった」という感想が聞かれました。その時です。あの日のことを思い出しました。「あ~オレは足こぎボートでアヒルと鳥と競争したんだよ」と長瀞の話をすると、子どもたちは大笑いしていましたが「上ちゃん、また話、作ってるでしょ!」と信じてくれない子もいました。

犀川でカヌー
犀川でカヌー2

63歳の挑戦~教員から銀行員へ

 60歳を前後して、肺がんに罹り、心筋梗塞で緊急搬送、頸動脈狭窄も見つかって、三大疾病をコンプリート!病気に次ぐ病気で気持ちがドーンと落ち込みました。そんな時、同期の小林が、突然川崎から長野まで見舞いに来てくれました。「なーんだ、元気じゃねーか!?」と元気づけてくれました。ほかの仲間たちもそれぞれ、第二の人生を頑張っている様子を小林から聞き、刺激を受けました。

 「学校の仕事は身がもたない」と感じていた私は、初めてハローワークに行きました。なかなか思うような仕事は見つかりません。結局、昔取った社会保険労務士資格を持っていたことで、地方銀行の年金相談員に就職が決まりました。63歳の転職です。

 それから1年過ぎます。5時ピタに帰れるし、昼休みはちゃんと休めるし、体は楽になりました。しかし60過ぎて新しいことにチャレンジするって大変なことです。資格はあるけれど、錆び付いた刀です。年金の理解、各種手続き、銀行のしきたりと覚えることも多いのに、歳をとるとなかなか覚えられません。毎日、苦戦の連続です。

 意地悪なパート馬鹿にされ、「この野郎!」と思うこともしばしばです。そんな時「チワ」「シタッ」「セイヤス(失礼します)」「おつかれやした(お疲れ様でした)」「ごっつぁんです」ボキャブラリー5つで乗り切った下級生時代を思い出します。「明日は明日の風が吹く」で過ごしています。

地福先生の言葉を噛みしめながら~剣道再開

 剣道は卒業以来遠ざかっていましたが、長男が小学校入学する時に「剣道がやりたい」と言いだし、再開しました。以来20年以上になります。現在は県警師範だった依田房生先生を迎えて、剣道仲間たちと稽古会を立ち上げ稽古に励んでいます。特連OBの稽古会、長野市や千曲市の剣道連盟の定例稽古会にも参加させてもらっています。結局、へたくその「飯食って剣道…」「チュリャチュリャ」生活は今も大学時代も変わりません。変わったのは「腐らず、あきらめず、頑張る」から「腐らず、あきらめず、楽しむ」になったことぐらいでしょうか。

 剣道を再開して以来、事あるごとに「追い出しコンパ」の地福先生の言葉を思い出します。私が大学剣道部で手に入れた「剣道」とは何だったのか?「勝ち負けよりもっと大切な剣道がある」ことにやっと気づきました。

地福先生と

 最後の昇段を終えました。試合に出ることもありません。剣道仲間たちと、励まし合いながら、病気になったらなったなり、体が痛い時は痛いなり、老いたら老いたなりの剣道を目指しています。地福先生が贈ってくださった「すばらしい剣道を手に入れる、それ以上、何も必要ない」という言葉通りの稽古を楽しむ毎日です。もう地福先生に稽古をお願いすることはできませんが、先輩方や同期の仲間、後輩たちともう一度稽古をお願いしたいと思っています。

剣道を楽しむ日々です

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立教大学紫光会
立教大学紫光会