あいつ何してる?!Vol. 9【平成4年卒 西田(旧姓木村)先輩編】
はじめまして。H4年卒業の西田(旧姓木村)と申します。1つ下の滑川さんからご指名いただきました。よろしくお願いいたします。
剣道部との出会い
中学高校と女子校のバレー部でのんびり楽しんでいた私が、なぜ立教大学剣道部に入部したのか。今考えても不思議でならない出来事でした。
入学前に行われた新入生のオリエンテーションキャンプで、私のグループリーダーが剣道部の菊池香先輩(H2卒)でした。ちょっと会いにいこうかな。そんな軽い気持ちで私は入学式当日、剣道部の部屋を訪ねました。あいにく菊池先輩は不在でしたが、高橋功先輩(H3卒)がお昼ご飯を一緒に食べようと、セントポールの隣へ連れていってくださったのです。高橋先輩は、あの大きな瞳をキラキラ潤ませながら、体育会剣道部の素晴らしさを熱く語って下さり、私はとても感動して、お話をうかがっているうちに、こんな先輩方と一緒に学生生活を送れたら間違いないんじゃないか、大学4年間私も何かに打ち込みたい、とすっかり洗脳されてしまったのでした。そして、その日のうちに入部を決めてしまったのでした。
戦力にもならない初心者を、先輩方は本当に優しく温かく迎えてくださいました。ちょうど怪我をされて稽古をおやすみされていた筒井先輩(H1卒)が新人指導責任者として、文字通り手取り足取り基本から丁寧に教えてくださいました。立教が、今のような全国大会常連校ではなく、また強豪校から優秀な選手がドシドシ入部してくるのでもない、あの頃だったから、私のような初心者ものびのび稽古できたのだと思います。初めて素振りをする時『釣り竿をピョ~ンと遠くへ飛ばす様に』と筒井先輩に言われ、「釣りをやったことがありません」と答えたときの先輩の困った笑顔が忘れられません。
地福先生、城太郎先生も、選手と分け隔てなく愛情をもって接してくださいました。知らないこと、できないことが、どんどんできるようになるのは純粋に楽しかったです。
先輩方が引退されて自分が上級生になると、ただ学年が上というだけで女子責任者を任されることが、実力も経験も自信も何もない私には荷が重く、皆の前で何か言わなければならない時も当然技術的なことなど言えるはずもなく、つくづく頼りない先輩でしたが、滑川さんはじめ後輩達みんながいつもしっかり盛り上げてくれたお陰で、最後まで充実した剣道部生活を送ることができました。
大学1年の夏に1級、11月に初段。2年の11月に二段、4年の11月に三段と順調に昇段し、自分の中では満足し剣道に区切りをつけて卒業しました。
結婚と子育て
卒業後、アサヒビール(株)に営業職で入社し京都支社に配属されましたが、一身上の都合で半年余りで退社し、翌年には結婚、転勤族の妻となりました。まず茨城、次に埼玉。埼玉で長女を出産し、娘が1歳の時に愛媛県の西条市へ引っ越しました。四国四県もまともに言えない自分が、知り合いの誰もいない海の向こうの西条へ行くなんて、島流しにあった気分でした。夫は仕事が忙しく、平日の帰宅は夜中、土日の出勤は当たり前でほとんど家にはいませんでした。西条で生まれた次女が3歳の時に夫は博多に異動になりましたが、私と娘達は西条に残り夫の単身赴任が始まりました。結婚・出産が友人達より早かったので悩みを打ち明ける相手もいませんでしたし、今のようにSNSどころか携帯もない時代でしたので、世の中から取り残されていくような焦りもありました。ワンオペ子育ての毎日は体力的にも精神的にも非常に厳しいものでした。が、よい友達に出会い、彼女達に助けてもらいながら無我夢中に頑張りました。すっかり方言も身に付き、地元の人しか知らないような裏道を車でかっ飛ばし、このままずっとここで暮らしたいと思うほど西条での生活を満喫していましたが、娘達の進学を考え、長女が小学校4年の時に神奈川に戻ってきました。
もともと腰痛持ちで、ギックリ腰は何度か経験していましたが、神奈川に戻ってしばらくした頃、とうとう椎間板ヘルニアになってしまいました。夜中に薬が切れて目が覚めて痛みで痺れる足を切ってほしいと思うほどでした。朝はベッドからなかなか起き上がれず、ほふく前進でキッチンまで行き、激痛にうめき声をあげながら娘のお弁当を作りました。手術しても完全に治る保証はないと言われ鎮痛剤とコルセットが手放せないまま、もう走ったりジャンプしたりは一生出来ないと思っていました。それでも子供たちの習い事や塾の送り迎え、学校のPTA役員など忙しい日々を送っていました。
剣道再開
職場に新しく入ってきた女の子が剣道をやっていると聞き、自分も昔少しだけやっていたなぁと他人事のように思い出しました。その頃は自分が剣道をやっていたなんて信じられないくらい体調が悪かったので、一緒にやりましょうと誘われても軽く受け流していましたし、ヘルニアなので到底無理だと断り続けていましたが、見学だけでも是非!と粘り強く説得され、そして本当に見学だけのつもりで訪れたのが川崎市の剣松館宮田道場でした。現在は改築されていますが、その頃の宮田道場はかつての立教大学富士見グラウンドの道場に何となく似ていて、一気に懐かしさがこみあげてきてしまいました。大学の部活とは違い和気あいあいと皆さん楽しそうに稽古されていて、大人になってから剣道を始めた方も何人かいらっしゃって、素振りで軽く汗を流す程度なら私でもできるかもしれない、と入門したのが2013年の夏でした。まさか剣道再開するなんて、周囲も驚いていましたが、一番驚いたのは自分です。
素振りだけのつもりだったのに、いい汗かければそれで良かったはずなのに、翌年2014年秋に四段、2019年春に五段といつの間にか昇段までして、毎年の市民大会などにも出場させていただき、すっかり剣道が生活の一部になってしまいました。今は週に1~2回稽古をしています。ちなみに、あんなに苦しめられたヘルニアは剣道を始めたら治ってしまいました!やはり体を動かすことは健康のためにはとても良いと実感しています。
剣道を再開した時、長女は高校生で次女は中学生。生意気な反抗期真っ盛りでした。夫は月に2回程度赴任先から帰ってきましたが、ほとんどの時間は女3人で過ごしていたので、
育児のストレスは相当のものがありましたが、家庭の外に自分のための時間や居場所を持てるということは私にとっては非常に救いになりました。
私にとって剣道は、修行・苦行という感じで、いまだに稽古に行く前は緊張してお腹が痛くなりますし、剣道が「好きだ」「楽しい」とはまだなかなか言えません。稽古の度に注意され、何度も何度も注意され、できない自分に落ち込んで、やっと直ったと思ったら次は違うことを注意され、の繰り返しです。
大人になって剣道をする目的は人それぞれです。県代表を目指している人もいれば、健康のために続けている人も。それでも一人ひとり仕事や家事の合間を縫って時間を作って道場に集い一緒に稽古に励む。その時間と空間を皆で共有できるのは素敵なことだと思います。
剣道をしていなかったら到底出会うことのなかったであろう様々な職業、年代の人々、その出会いは間違いなく私の人生を豊かにし広がりと深みを与えてくれます。
お腹が痛くなっても落ち込んでも稽古に通い続けるのは、道場にそんな魅力があるからかもしれません。
そして、今私がこうして剣道を続けていられるのは、立教大学剣道部で過ごした4年間があったからこそです。なにも知らない私に一から剣道を教えてくださった先生方、先輩方、共に過ごした仲間たち後輩たちに、直接お会いすることはなかなか叶いませんが、感謝の気持ちをお伝えできる良い機会だと思い、今回この投稿をお引き受けしました。この場をお借りしてお礼を申し上げます。どうもありがとうございました。
これから
今年の春に長女が結婚し来年の春には次女が大学卒業の予定で、いよいよ私の子育ても終了です。これからの時間をどう過ごそうか、考えるとわくわくします。
50歳を過ぎてからは、いくら稽古してももう上達などしないのではないか、頑張っても現状維持、いや現状維持すら最近は難しい。ただ怪我さえしないように稽古できたら十分ということなのか。稽古への向き合い方や意識の持ちようについて悩むときもありますが、それでもやはり、今より少しでも上達したい、昨日の自分より成長したい、そんな想いを持ちながら細く長く剣道を続けていけたらいいと思っています。
ここ数年の立大剣道部の活躍は、OGであると言うのが憚られるほど素晴らしく、いつも興奮と感動をいただいています。これからも陰ながら(たまにこっそり会場で)声援を送り続けますので是非頑張ってください!
では、私が剣道部に入るきっかけとなった高橋功先輩(数年前にお会いした時も相変わらず瞳がキラキラしてました)にバトンをお渡しします。高橋先輩よろしくお願いします。
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