あいつ何してる? Vol.19 【平成2年卒 亀山博一(陣出博司)】*元 自衛隊員、現 お寺の住職

皆様、大変ご無沙汰しております。平成2年卒業の亀山博一(はくいつ)です。「そんなやついた?」という声が聞こえてきそうですが、昔の名前は陣出博司です。卒業後は海上自衛隊に入隊し、5年後に退職して出家。現在は臨済宗(禅宗)のお寺の住職をしております。紫光会の集まりや同期会には顔を出さず、30年ほど前から剣道もしておりません。

初めて会う人や久し振りに再会した人から、よく「何で自衛隊に入ったんだっけ?」「どうして坊さんに?」と聞かれるのですが、ちゃんとお答えしたことがありません。この機会に「どうしようもない男がなぜか寺の住職になって楽しくやっている話」を書いてみようと思います。まわりの人と同じ価値観で生きられなくても、大丈夫。その人に合った生き方が必ずあるはずなのです。

企画の趣旨から少し逸脱するかもしれませんが、何卒ご寛恕下さい。

学生時代

私は初心者で立教剣道部に入りました。剣道を始めたのは、立教高校の寮の恩師である原義克先生の威厳に満ちた剣道姿に憧れて「剣道で心身を鍛えれば、強い意志と自信を持った立派な男になれる」と真剣に考えたからです。

当時の私は典型的なモラトリアム(年齢の割に精神的に未熟)でした。気が小さくて意志も弱く、自分に自信が持てず、何かと考え込んだり思い悩んでばかり。そして私自身、そんな自分が嫌いでした。「こんな自分を変えたい、強い人間になりたい」と強く感じていました。同期からは完全に浮いた存在だったと思います。

それでも、立教剣道部の大らかで和気藹々とした雰囲気に助けられ、地福先生や打木先生など多くの皆様に親切にご指導頂いたおかげで、卒業までに三段を取ることができました。特に、お付きをさせて頂いた土屋先輩には本当にお世話になり、今でも感謝しております。

初段審査合格!柚木先輩、同期の當原(川嶋)と

海上自衛隊へ

しかし当然ながら、剣道部で鍛えても「自分」は「自分」のまま、何も変わりません。心の中ではいつも「なぜ他の人のように生きられないのか」という焦りと疎外感を感じていました。そのせいもあり、他のみんなのように企業に就職するのか、それとも他の道を選ぶのかについて大いに悩みました。

お金儲けには全く興味がないから、企業就職は無理。社会に出ても使いものにならなず、きらびやかな大都会(ちょうどバブル真っ最中)の片隅で野垂れ死ぬに違いない。できればそれは避けたい…ならどうする?

そこで私はまたもや「自衛隊に入って自分を鍛えよう!」と思い立ちました。色々と考えた結果、海上自衛隊一般幹部候補生課程の試験を受けることにしました。

山奥で生まれたので「船乗りになって海で生活したい」という子供じみた憧れがありました。阿川弘之の海軍小説の影響も大きかったと思います。当時よく読んだ三島由紀夫の影響も多少はありました。しかし、実はもっと単純で差し迫った「自己を鍛錬して精神的に強くならなければ」という焦燥感に突き動かされていました。

候補生学校

採用試験に無事合格し、大学を卒業した私は「第41期一般幹部候補生」として江田島(広島県安芸郡)の幹部候補生学校(旧海軍兵学校)に入学しました。

候補生学校の教育は体力的にも精神的にも過酷でしたが、体験することのすべてが新鮮で、すべてが輝いているように感じていました。間違いなく、人生で最も充実した1年間でした。同じ分隊の仲間たちと寝食を共にし、助け合いながら無我夢中で過ごした日々のことは、生涯忘れはないでしょう。

候補生学校を卒業すると同時に練習艦隊所属の護衛艦「はつゆき」に乗り込み、国内を巡行したのち、世界一周の長期海上実習(遠洋航海)に出発しました。

遠洋航海へ

「遠洋航海なんて、いいですね~」とよく言われますが、客船じゃありませんから(笑)。

寄港地から寄港地の間は洋上の訓練が四六時中続き、実部隊への配属に向けて徹底的にしごかれます。逃げ場のない海の上でひどい船酔いにも苦しめられながら、半年間で艦艇勤務と初級幹部の基礎を叩き込まれました。

初めて経験する海の生活は驚きと冒険に溢れていました。果てしなく続く訓練と当直勤務で身も心もボロボロになった真夜中に何気なく夜空を見上げ、頭上に広がる星空の壮絶な美しさに圧倒されたこと。大洋のど真ん中で、艦を飲み込むほどの巨大な波に感じた、震えるような恐ろしさと神々しさ。艦首のアクティブ・ソナー(*1)から放たれる

ソナー音が深い深い海の底へ遠ざかるのを隔壁の向こうに感じながら、狭いベッドで眠ったこと。水平線上にあらわれる陸地、初めて訪れる国々、初めて会う人々。今ではすべてが夢のように感じます。

日本に帰国した私は護衛艦隊旗艦「むらくも」の砲術士兼甲板士官として赴任。その後、護衛艦「いそゆき」船務士、「せとゆき」応急長として勤務しました。

遠洋航海の寄港地、パール・ハーバー。後方に見えるのは海自練習艦隊

ふたたび迷う

せとゆきで応急長として勤務している時のことです。幹部としての経歴は順調で、翌年には航海長(『宇宙戦艦ヤマト』で言うと島大介の配置)になる予定でしたが、その頃また強い葛藤を感じるようになっていました。

当時すでに数十名の部下を指揮する立場でしたが、艦内の人間関係で悩むことが多く、「こんな自分が指揮官として通用するだろうか。いざという時に部下の命を守れるだろうか」という不安が頭から離れなくなり、同じ頃にプライベートでも大きな挫折を経験したことも追い打ちをかけ、急激に気力を失ってしまいました。

普通ならここで奮発して努力するのでしょうが、私の心は悩みの堂々巡りに陥って、完全に身動きが取れなくなっていました。しかし、暗澹とした日々を過ごしていたある時、人生を変えることになる転機が訪れたのです。

禅との出会い

きっかけは、佐世保市京町の古い書店の仏教書コーナーで出会った、禅(*2)の本でした。救いを求めて何かにすがるような宗教には興味がありませんでしたが、立大で横山紘一教授(仏教学)の授業とゼミで仏教の面白さを知って以来、自己と世界の真理を深く探求する仏教の世界観には関心を抱いていました。

フラフラと仏教書コーナーに引き寄せられ、一冊の本を手に取りました。真剣に坐禅する修行僧の写真を見た時に「こんな世界があるのか!」と胸を衝かれました。そして、たまたま開いたページに書いてあった言葉が、彗星のようにズドーンと心に飛び込んできたのです。

「放てば手に満てり」

道元禅師(*3)の言葉です。いま握っているものを手放すことで、本当に大切なものを手に入れることができる。当時の私はそんなふうに理解しました。その時急に心が軽くなり、腹の底から力が湧いてきました。

今のままでは自滅してしまう。しかし、自分をがんじがらめにしているもの(職務、経歴、評価、人間関係、将来の展望、複雑怪奇で理解不能な人生のあれこれ)を一旦ぜんぶ手放そう。そうすれば自分をリセットできるかもしれない。生まれ変わって、あらたな人生を生きることができるかもしれない。

突如「にわか禅マニア」として覚醒した私は、その週末から宿舎近くの曹洞宗のお寺に坐禅に通うようになり、航海中も坐禅を続けました。「出家して修行しよう」と決意するまで、それほど時間はかかりませんでした。「悟りたい」とか「寺の住職になりたい」などという高尚な考えはなく、単純に「すべてを捨てて修行の世界に飛び込んでみたい」という思いだけでした。

半年以上かけて退職の手続きをすべて完了し、佐世保基地のゲートを出た私は、そのまま福岡市のある臨済宗の寺に向かいました。その夜から、お寺での暮らしが始まりました。

「出家するなんて凄い」「坊さんを目指すなんて偉い」とよく言われますが、あの時は「ただもうそうするしかなかった」というだけですし、それまでの人生を逃げ出したも同然。凄くも偉くもありません。ただ、大きな力でグイグイ後押しされるように退職から出家まで一気に進んだことに、不思議なご縁を感じています。

出家と修行

福岡のお寺で8ヶ月ほど見習い期間を過ごした私は、縁あって京都市の臨済宗の老師の弟子にして頂き、ようやく禅寺の小僧(『一休さん』みたいな感じ。27歳でも最初は小僧です)となりました。

薪で沸かす五右衛門風呂、麦飯と味噌汁と漬物だけの食事、食べ方や掃除の作法、法衣や袈裟の着け方、お経の読み方や仏具の扱いなど、お寺での暮らしは驚きの連続でした。何ごとも不器用な私は、師匠や兄弟子から叱られてばかりでした。

師匠のもとで僧侶の基本を身に付け、正式な出家得度の儀式を経て「睦雲博一(ぼくうん・はくいつ)」という僧名を頂きました。約1年後に、雲水(修行僧)として僧堂(禅の修行をする道場)へ修行に行かせて頂きました。

修行中のひとコマ。出家当時の写真は残っていません。

「自衛隊と修行、どっちが厳しかった?」と質問されることが多いのですが、自衛隊は組織の命令系統の中で自分の任務を確実に全うするのが目的。僧堂の修行はあくまでも自己の心と向き合うことが目的。厳しさのベクトルが全然違いますので比較はできません。

ただ一つ言えるのは、私は出家して修行することで救われたということです。手放すことで手に満ちるものが、確かにあったのです。

僧堂で約5年間の修行を経験し、その後も師匠の寺の手伝いなどをしながら経験を積み、出家から13年後、40歳の時に現在の宝満寺の住職となりました。

住職として

臨済宗南禅寺派 宝満寺。弘法大師が永仁4年(808年)創開されました。真言宗寺院でしたが、鎌倉時代に亀山法皇の勅命で禅宗に改宗され、日本に味噌と醤油を伝えた心地覚心禅師(法燈国師)が住持しました。時宗の宗祖一遍上人、平清盛や足利尊氏とも縁のあるお寺です。昭和の下町の雰囲気が残る長田区にあります。

現在は臨済宗南禅寺派の宝満寺の第32世の住職として、毎日飛び回って楽しくやっています。家内は先代住職の次女で、お見合いをして15年前に結婚しました。この時から代々の住職の姓である「亀山」を名乗るようになりました。力を合わせてお寺を守りながら、仲良く暮らしています。

檀家の大村崑さんをお招きして宝満寺文化講座(講演会)

あらゆる世代の方々が気軽に立ち寄れるお寺を目指し、仏教学者の佐々木閑先生から最新の仏教学を学ぶ「宝満寺仏教塾」、講師を招いての法話会や講演会「文化講座」、落語会「宝満寺寄席」など、さまざまな取り組みを行っています。多くの人とふれ合うことで、結局は自分自身が一番楽しんでいます。

また、臨済宗連合各派布教師会に所属する布教師(説教師)としても活動しており、大本山南禅寺の要請を受けて全国各地のお寺などに法話(一般の皆様向けの禅や仏教のお話)に赴いています。

アメリカ人カップルの「仏前結婚式」

2021年には、お寺や宗派という枠を超え、ひとりの僧侶として「人」から「人」へ禅や仏教の面白さを伝えるために、全国の若手僧侶たちと一般社団法人「禅人(ゼンジン)」を設立し、「ZENzine」というウェブサイトを開設しました。立ち上げ以来、ZENzineの編集長として楽しく悪戦苦闘中です。

ウェブマガジンZENzine -人と禅とが出会う場所

ZENzine / 禅人

ZENzine / 禅人は「人」と「禅」が出会うウェブマガジン。「禅」とは知識や思想ではなく、「人」が今を生きるための、シンプルで力強い智慧なのです。皆さんが自分自身や…

おわりに

原先生への憧れから始まった剣道部での学生時代、海の上で多くのことを学んだ自衛官時代、そして出家してからの修行の日々。まだ偉そうに振り返る年齢ではありませんが、これまでずっと「自分とは何か」の答えを探し求めていたのだなあと、しみじみ感じています。

法要にて

今の私はもう「自分とは何か」を問う必要がありません。「自分を変えなければ」と焦ることもありません。「自分を生きる」ことを楽しんでいます。私を支え生かしてくれている数多のご縁に感謝し、今日一日を、今という一瞬を存分に味わって生きています。

結局、探し求める必要はなかった。自分は自分でしかない。それで十分。お釈迦様の教えや禅の教えに出会うことで、そんな「当たり前のこと」に気付かせてもらいました。

「宗教的」なことにはなるべく触れないよう配慮しましたが、自分語りばかりの長文になってしまいました。締切にも遅れ、磯野先輩にもご迷惑をおかけしてしまいました。誠に申し訳ありません。

立大剣道部の益々の活躍、紫光会のご発展ならびに会員の皆様のご健康を心より祈念申し上げます。

女子の全日本優勝祝賀会にて同期たちと

(1)アクティブ・ソナー:海中に向けて音波(ソナー波)を発信し、その反響を解析することで、海中の目標や障害物の距離・進路・速力・大きさを知ることができます。

(2)禅:禅とは「心を鎮めて深く集中する」という意味。中国の唐代から宋代にかけて大きく発展した仏教の一派で、鎌倉時代に日本に伝わりました。禅を教義とする宗派を「禅宗」と呼び、日本の禅宗には臨済宗、曹洞宗、黄檗宗が存在します。

禅では本来「自己の心そのものが仏である」と考えるため、特定の経典や仏像などを信仰の対象としません。坐禅や参禅(師僧との問答)を通じて自己を究明することを重視し、自利(自分を救うこと)がそのまま自他(他の一切の命を救うこと)となるような生き方を理想とします。

(3)道元禅師:日本臨済宗の宗祖。福井県の永平寺を創開。「放てば手にみてり」は、道元禅師が著した法語集『正法眼蔵』の「弁道話」にある有名な言葉。