あいつ何してる? Vol.13 【平成20年卒 花岡先輩】

紫光会関係者の皆様、ご無沙汰しております。
平成20年度卒の花岡一騎と申します。

後輩の長沢君からバトンを頂きました。
剣道とはかなり離れてしまいました。いつか大学に顔を出したいと思っています。

私は現在、ベトナムで働いています。今年で8年目になります。
ベトナムがどのような国かを簡単に説明します。人口は約1億人で、国民の平均年齢が29歳と非常に活気が溢れる国です。平均年収も1年ごとに10%づつ上がっていて、コロナ禍にも関わらず発展してきています。
また、ベトナム人はとても親日家です。これは先輩方がベトナムと良い関係を築いて来た結果だと思っています。しかし、文化は全く違います。言葉の壁もありましたが、文化の違いでとても苦労をしました。
なぜ私がベトナムで働いているか、思い出しながら書いて行きます。

私の出身は長野県上田市という所です。戦国武将が好きな方は真田幸村の里とすぐ理解したと思います。高校は駅伝や野球で有名な佐久長聖高校でした。3年間寮生活をしました。
その後、指定校推薦で立教大学へ進学しました。インターハイ出場を目標に、3年間ひたすら剣道に打ち込みましたが、県大会で敗退してしまい悔しい思いをしました。

大学剣道時代は本当に稽古漬けの日々でした。「切り返しの宗平」「鬼の栗和田」「理不尽の山口」各代のキャプテンから愛のムチを受けました。必死でした。その結果、私の代に男子団体で全日本に出場することが出来ました。諸先輩方、本当に感謝しております。人生で1番嬉しかった瞬間は?という問いがあれば、間違いなくその時です。


私の得意技は相面、負ける時は抜き胴でした。思い切りが良く、向こう見ずなものだったと思います。全日本の1回戦、石川監督からはじっくり行けと指示されていたにも関わらず、初太刀で抜き胴を取られたのは良い(?)思い出です。石川監督すみませんでした。思い切りが良い性格なので、海外で仕事をすることも決められたのではと思っています。

昔から手に職を付けたいという思いがあり、大学剣道を引退後、和食の修行に入りました。7年である程度のことを覚え修行を終えました。その後縁があり、ベトナムのホーチミンという所で鍋屋を切り盛りしてみないかという話が来ました。
※ホーチミンという所はベトナム第2の都市です。南部に位置します。人口が900万人で、日本人も1万人以上住んでいます。日本人街がある程です。ちなみに首都はハノイという北部に位置し、ハノイ人とホーチミン人は仲が悪いです。
修行中の7年間、積み立てをして毎年海外旅行に行っていました。色々な国へ行きましたが、海外で和食のお店をやったら面白そうだという思いがありました。自分の力を試す機会だと、思い切って挑戦してみる事にしました。
頼れる人も友達も居らず、右も左も分からない中、ベトナムへ飛び込みました。期待と不安が半分づつくらいだったと思います。

ホーチミンに来てから鍋屋と新たに和食のレストランをオープンしました。手探りの中、人脈を増やしつつ、成功させようと働きました。しかし、なかなか売り上げが上がらす、4年で撤退しました。希望を持ってベトナムに来たものの、簡単には行かないと現実を突き付けられました。頑張って育てた店を閉めるのは苦渋の決断でした。

店を閉めた後、日本に帰るか悩みました。
そんな中、ニャチャンの寿司屋から声をかけて頂き、ホーチミンからニャチャンへ移住することにしました。
※ニャチャンという場所はベトナムの中南に位置し、ビーチがある観光地です。元々ロシア人が開拓した土地で、ベトナム第4の都市になります。


その後は4年間、ニャチャンで寿司屋を切り盛りしています。現在はありがたい事に、多くのお客様にご来店頂いています。「きわみ」という屋号です。気になる方は調べて見て下さい。私が握っています。


私は5年前にベトナム女性と国際結婚をしました。毎日3歳の息子に日本語を教えています。

実はニャチャンに剣道クラブがあります。ベトナムで1番強い選手が仕切っています。彼は何故か私が剣道をしていた事を知っていて、たまに店に食べに来ては「剣道する気になった?」と聞かれます。子供がもう少し成長したら親子で門を叩いて見ようかなと思っています。