あいつ何してる?! Vol.12 【平成3年卒 高橋功先輩編】

紫光会関係者の皆様、こんにちわ。平成3年卒の高橋と申します。

後輩の木村さん(現在は同志社剣道部OBのご主人の姓で西田さん)から話を頂き、剣道から離れている私でいいのかと躊躇しましたが、一つ上の代の鈴木先輩から書け!とご指導頂いたので寄稿させて頂きます。

箸休め的な回ということでご一読頂ければ幸いです。

剣道との出会い

小学生時代は大阪千里の誠勇館という道場で弟と一緒に剣道をしていました。

お母さん達から見送られながら、道着のままスカイラインを乗って帰っていく道場の先生をカッコイイと思いながらいつもお見送りしていたのを思い出します。

その後引っ越した千葉の中学生活では、剣道部が無く入った部活と並行で地元の道場に通う3年間を過ごすも最後に受験失敗という悲劇、呆然としたまま何も考えず入った学校は絵に描いたようなヤンキー校で、登校初日から色鮮やかな髪の学生達が彩るカラフルな風景をブルー、いや、灰色な気分で通い始めました。

部活動は各部とも部員が少なく剣道部も例に漏れずで、入学時点で三年ゼロ、二年1人、一年が私含めて3人の計4人、稽古する相手に飽きる中、二年次に筑波OB、翌年には国士舘OBと、先生だけは充実していく中、部員は入れば辞めるの繰り返しで、団体戦も選手が揃って出ることがほぼ無いまま引退しました。

いざ立教大学へ

そんな高校生活でも気がつけば進路を考える時期になり、大学進学希望がほぼいないクラスの会話に染まりながらも、いつも自宅で何気なく目にしていた同志社体操部OBの父の同立戦ペナントのRIKKIOと百合マークがある時から気になり、池袋キャンパスを一度見に行ったその瞬間、美しい校舎とお洒落な学生の天国のような光景に魅了され受験することを決めたのでありました。

同立戦記念プレート

一浪したものの無事合格、お前が受かったら逆立ちするといった先生に逆立ちして頂き、二部でも合格とは良くやった!と泣きながらハグしに来た先生には立教に二部はないけどとお伝えし、晴れて入学。

美しいキャンパスに足を踏み入れた時には、カラフルなキャンパスライフを妄想していたのに、気がつけば学ランで通学し、昼休みに教室で校歌と応援歌を練習しながら芝生で語らう同級生を目で追い、四丁目を「チャー」と絶叫するキャンパスライフになっていた。

大学剣道部

新歓の時には柔和な表情だった表情から一転し鋭い目つきに変貌を遂げた先輩方から「粗相」をする度に厳しいご指導を頂きながら、千葉から池袋に通学、志木で稽古して都内でバイトして千葉に戻る3都道府県を移動する剣道部生活は、同期の立高組の久保、芳川、甕、と同じ千葉の渡辺知倫との麻雀などでリフレッシュもしつつ、稽古にもそれなりに励みながらの日々。

同立戦後両校同期

ただ、その「それなりに」の向き合いが問題だった。当時の自身の剣道のレベルはと言えば同期の中でも下、年数度の公式戦のメンバー入りはそのままではまず無理なのに、序列を変える気概を持つ発想すら持たずに何の疑問も不満も持たず受け入れる日常にしてしまい、終わってみれば4年間辞めずに続けるが目標になってしまっていた。

そして、そんなメンタルで引退間際に四段を取得したことが、結果的にここで剣道から一旦離れようと決める機会になってしまった

就職と卒業後

就活をしながら、あらためて大学生活で何も得ていないことに焦りを感じ始め、自分を変える環境に身を置ける会社として選んだ会社はリクルート。

配属先は大学広告の営業部。初めて足を踏み入れたフロアには「ネオパラダイス宣言!」の大きな看板、何のこっちゃ? 毎朝の職場は一発芸やネタ入れながらの営業報告で笑いが溢れるが、業務が開始すると雰囲気は一転、目標設定の議論、広告制作と営業の口論、電話でのクライアントとのバチバチの電話、とフロア中が沸騰し、新人含めた皆が、性別・経験・年齢に関係なく、思ったことをバンバン言いながら次々アクションしていく。そんな彼らをポカンと口を開けながらフリーズ、意見や疑問は何も浮かばず全て正しく思えて、自分だけ脳みそが止まっていると気持ちだけが焦るのが自分であった。

そんな時に目に飛び込んできたとある先輩の机のプレート。

「自ら機会を創り出し機会によって自らを変えよ」

創業者だった江副さんの言葉のプレートでリクルート事件までは全社員の机に置かれていたもの。

自ら機会を創り出し機会によって自らを変えよ」プレート

どう機会を創ればいのかがわからないままだったがこの言葉に痺れた。考えない、言うだけでは何も変わらないことだけは理解できでも、でも機会を創る為に何していいかがやはりわからない。そこで、自分がわからないのなら人に頼ろう、盗むしかないと決め、飛び抜けた業績を出し続ける3年目の先輩営業マンに残業時も仕事後も密着、数ヶ月後には彼の社宅に居候までするようになり、彼の「お前はどうしたいの?」の禅問答のような口癖に鍛えられながら、思考停止の行動癖から少しづつ脱出していった。

スポーツの世界へ

慶應サッカー部出身のその彼は、週末は都社会人リーグ加盟の会社のサッカー部で活動をしていて、仕事を教わる代わりに、残業後のほぼ毎深夜に板橋の高架下でボールを蹴る相手をさせられるようになった。数ヶ月後あたりから基本的な止める・蹴るができるようになると面白くなってきて私も入部、土日はグラウンドでの生活になった。

当初は、広いコートに22人の視野に慣れず、どこに立てばいいのか、どう動けばいいのか等のポジショニングの理解と、90分走り続ける体力に慣れるのに時間を要したが、それ以上にその先輩から喋れ!と頻繁に言われることに何よりも苦労した。局面が動くその瞬間瞬間にどこでボールが欲しいのか、出したいのか、誰を動かしたいのか、言葉にする時には展開が変わっている・・ これに頭と体が慣れるまで数年かかりその間公式戦に全く使われなかったが、ベンチから理想的な喋りとプレーの選手に集中して試合を追う、この見取り稽古を繰り返すうちに自然とできるようになり、職場でも「喋る」ことができるようになっていた。

その後間も無くしてその先輩は営業力をより活かせる会社に転職、師匠がいない中自身で「お前はどうしたいの?」の禅問答からプレーだけでなく仕事でサッカー、スポーツに関わりたくなり、まさかの社内に発足したスポーツ事業部に手を挙げ配属された。インターネット黎明期のスポーツメディアの運営やJリーグと発足させたセカンドキャリア事業に関わりまずまず成果も出したつもりだったが、他事業の規模感は難しいとの経営判断で2002年に部門閉鎖。34才でフレックス定年退職をし、部門の上司、チームメンバーと小さな会社を創業、翌年その創業メンバーなどとSEA Globalという会社を興し、波のあるスポーツ業界で揉まれながら20期目を終えるところです。

夕刊フジ 退職した後の取材記事

ここまでスポーツ商社としてサッカー、野球など、各スポーツチーム、競技団体の集客や売上増、普及育成、強化などの事業に関わってきましたが、ここ最近、初めての武道の仕事として、日本相撲協会の事業推進をお手伝いしています。

守るべき伝統をしっかり守りながら改革は大胆に進めるこの仕事は他のスポーツとはやはり違う魅力と難しさを持ち合わせています。そこは剣道も同じかもしれませんが。

両国国技館隣接相撲教習所にて

剣道の影響

故日本サッカー協会長沼会長が剣道といえばということで、メキシコ五輪の時の日本代表を率いていたドイツ人監督のクラマーさんが選手達に「日本人なのに残心を知らないのか。ゴールの笛が鳴るまでプレーを止めるな」との当時のエピソードをお話頂いたことがありました。昨年のW杯で話題になった三苫の1ミリもスペインGKが出たと思ってプレーも目線も切ったことが失点になったものですし、他の競技でも同じような光景を目にします。

もし彼が剣道をしていたら止めていたかもしれません。

そのような競技特性はスポーツをどう使うかの目線での事業としても取り組み始めていて、スポーツライフスキルの研究者と競技特性を活かしたジュニア世代へのライフスキルプログラムを開発し、野球なら3割で成功=7割の失敗をどう向き合うか、の競技特性を盛り込んだ野球をしながらライフスキルを伸ばす少年野球キャンプを西武ライオンズと、同じくサッカーではFC東京、セレッソ大阪と開催していますが、剣道含めた武道は他のスポーツでは盛り込めない特性が多くあり、競技特性が人生やキャリアにどう活きるのかも興味深いです。

もちろんライフスキルだけでなく競技スキルにも活きると思っていて、自身でも、相手にドリブルを仕掛けられると、先の先なのか、ボールを晒して後の先で来るのか、そこに対して、一歩なら小手、二歩なら小手面、三歩なら小手面胴の足捌きでボールを刈りに行くなど、相手との対峙に剣道の感覚と間合いを使っていました。

剣道以外のことばかり長々と書いてしまいましたが、素振りだけは今でも続けています。

剣道から離れていても竹刀と素振り用木刀は手放せないのは、心のどこかではまた剣道をしたい気持ちがあるからかもしれません。