あいつ何してる?Vol.27【昭和46年卒 島田美幸先輩】永遠の応援団長法月先輩からバトンを受けて前紫光会会長登板!

昭和46年卒業の島田美幸です。

今年の紫光会総会時、2年後輩の法月先輩と磯野会長からの要請で投稿することになりましたが、困ってしまいました。

昔の写真を引っ張りだしたら、記憶の底に閉じ込めていた情けない話、やっちまった話ばかり噴き出してきて懺悔の書になりそうです。

剣道との関わり

昭和36年(1961年)立教中学に入学、卓球部にはいりましたが、いきなり池袋の街を声出してのランニングに恐れをなして、2日目に練習不参加なし崩し的に退部しました。小さな挫折を感じていたところ、3学期に担任の小沢福夫先生が剣道同好会というのがあるがとの紹介があり、同好会なら練習はきつくないだろうとの思いで入ってしまいました。入ったら部員は経験のある二年生2人、一年生4~5人でした。場所は校舎屋上のタイルの上でいつも見てくれる指導者は無し、二年のキャプテンの指示で剣道らしきものを始めたわけです。二年次にやたらスプリングの効いた道場が出来、三年次に剣道が体育の授業に取り入れられ鈴木幾雄先生が講師として赴任されそこからちゃんとした剣道に巡り会ったわけです。

立教高校ではすでに鈴木先生が師範をされており、独特の鈴木流で3年間過ごしました。高校卒業時鈴木先生から「お前、良く治ったな」と言われ、はじめは相当ひどい剣道だったようです。

大学での生活

高校卒業直後の3月の千葉鴨川での春合宿に参加。今では考えられませんが、いきなり「お前らきょうから一年生、酒もたばこもOKだが稽古は一生懸命やれ」と上級生から宣言され剣道部生活が始まりました。当初は上板橋の道場での稽古でしたが、道場には寝具台所水道トイレ完備の独立の建物で鍵のありかは伝統的に決まっていたため、酔っぱらったOBが一泊していく事がままあり、余計なことに黒板に「掃除がなってない」などと書き残すので、そのたびに正座一時間の説教を食らっていました。

二年になると、道場は東京都の所有物のため返却され立教中学や講談社の野間道場などに転々と場所を移しての稽古でした。先日の飯田先輩の投稿にあったように初めての女子部員中森さんが誕生した年でした。この年の関東学生に選手として出場したものの、拓殖大学にあたり2本負けし試合後のミーティングでは某OBに「お前のせいで立教は負けた」と怒鳴られ1回目の坊主になりました。

S43 仙台でのオールミッション後 青葉城公園にて
S43 郡山夏合宿後 猪苗代湖でモーターボート

三年の6月、授業料値上げ反対に端を発して全学連が構成され学園封鎖のストに突入しました。そのころはベトナム戦争のただなか多くの大学での学園紛争が一種の社会現象になっており立教もその嵐に巻き込まれたわけです。

初夏に富士見グランドに紫光館道場ができ開場記念式典行事として異種稽古が行われました。私がなぜか鎖鎌(勿論鎌の形の木刀とひもにタンポをつけたもの)との稽古の一番手に指名され訳もわからずタンポを搔い潜りメンを打ち鍔ぜりみたく近くに止まったら鎌でクビ、小手と切られてしまい、そりゃそうだよなと思いつつ勝手のちがいに閉口したことを思い出しました。

紫光館落成記念

授業はずっと休講なので、毎日朝10時に富士見道場での稽古し、その後打木先生の「男女論」に根差した人生論の私的講義を受ける毎日で精神衛生上非常によろしい日々でした。

その年は古屋主将の下、結構選手が揃い、関東学生で勝ち上がり全日本学生へ、4年ぶりの出場を決めた年でした。大会を前にミニ合宿が富士見の道場で行われ私も選手に入っていましたが、何と言うことか某女子大のガールフレンズ4人が見学と称して道場にタクシーで乗り付けてきました。四年生は片目で三年を睨みつけながら満面の笑みで招きいれましたが、その後の稽古では風当たりが強くなり、私も張り切り過ぎて右足捻挫。大会前には治っているアピールをしましたが、当時の中西監督は謹厳な方なので残念ながら補欠として時間計測要員でした。

S44 全日本学生剣道優勝大会 入場

学園封鎖が続くと四年生の就職が出来ないということで、1月に全学集会をひらいて、スト解除を決定、2週間の集中講義後の試験で単位付与という変則手続きが取られました。私は経済学部で、もともと卒論は無く取得単位のみでしたが、その年は四年での必修科目もなくなり三年の期末試験で卒業単位を満たす取得ができました。

ということで、すでに卒業がきまっているので、四年では、就活と稽古の毎日でした。現役に「勉学に励め」とは、とても言えません。

この年のトピックは、関東学生で1回戦鈴木先生が師範をされていた、国学院でした。予備道場でのアップでは、彼らも鈴木流の踏み込まない歩み足の打ち込みをやっていて複雑な感じでした。

対戦はひどいもので、先鋒から副将まで2本負け、大将の私が1本負けと野球でいえばノーヒットノーランを食らったようなもので、多分剣道部史上公式戦最低成績でしょう。大体誰か1本ぐらい取るのですが。

主務の串田君と二人で坊主になったら、打木先生がニヤリとわらって「これでOBへの言い訳はすんだな」ですと。思い出したくなかった!

S45 湯桧曽夏合宿 中西会長、打木先生&ご子息他

大学同期は、水谷茂司(清水東)、渡辺公一(長生)、芥川寛(佼成学園)、飯島賢悟(佼成学園)、串田信行、青木永、島田の3名は立教高校の7名で、水谷、芥川はすでに鬼籍に入ってしまいました。

誇れるものの少ない剣道人生ですが、思えば立教中学から大学まで剣道を続けた初代が私と串田君の2名と言うことでしょうか。

卒業後の高校大学同期会 女性は串田先輩ご夫人

卒業後は、伯父2人と父が始めた菓子卸業に入社し、高度成長期からバブル、崩壊と中小企業なりに営業に没頭。そのころ菓子の輸入が自由化され(信じられないでしょうが多くのものが輸入割当、許可制でした)経営者の息子は先鋒の役で、昭和57年(1982年)から、昭和62年(1987年)の5年間米国とドイツに駐在として家族で赴任しました。その間1度も帰国しなかったので今なら駐在ハラスメントになりそうです。

家庭では、1男1女に恵まれましたが、両方とも独身で、孫はいません。

そんなこんなで、東京を離れる期間があり剣道、或いは紫光会とも疎遠な時間が長く続きました。紫光会費の未納もあったのではないかと思います。

2014年に、会社を退任し久しぶりに紫光会に出たら、政所先輩から「いま何してる?」との質問があり会社卒業したので、剣道再開しようかと答えたら、当時の飯田会長と顔を見合わせてニヤリと笑いました。

そこで飯田会長の後継として打診され、一年の時の三年生からの指示にNOはあるはずもなく、不肖ながら2023年まで6年間副会長、事務局長の支えで務めることができ、昨年無事磯野現会長にバトンタッチできホットしています。

以上、やはり懺悔ばかりですが、少なくとも立教で育ち、剣道部での先輩後輩含めての友人との日々は間違いなく楽しいものでした。これからも楽しみを見つけてゆこうと思います。駄文にお付き合いいただきありがとうございました。

紫光会70周年祝賀会時