あいつ何してる?Vol.26【昭和57年卒 冨樫森先輩】立教剣道部卒”映画監督”の登場です!

10年近くも撮れてないのに確定申告の職業欄に映画監督と書くにはいささか覚悟のようなものがいりますが、一期上の磯野会長に「お前、この紫光会のこれ書け!剣道のことなぞいらないから、ちょっとお前のことをな。あと面白い懐かしい写真をイッパイ」と言われてみると、おおこの機会にその辺りの私のこれまで成り行きなどを少し書いてみようかと思って、パソコンに向かっています。

この業界に進むことになってしまった笑、きっかけの一つが私の入学時、1978年ですが、一般教養の中に「映画表現論」と言う授業があり、映画好きミーハーだったので面白そうだなと何の気なしに教室に通い始めてしまったことです。蓮實重彦と言う当時現代思想界を席巻していたフランス記号論を援用した映画批評の第一人者の先生が担当で、受講希望学生が教室に入り切らず廊下に溢れておりました。それまで映画批評は歴史的分脈や思想・信条などから作品の中に向かうことが多かったのに対し、蓮實さんがやっていたのは徹底して画面の表面に写っているものだけを使って作品を分析論ずるという全く新しい手法で、みんなそのカッコ良さにガツン!とやられて、彼の本を買い、彼が授業で取り上げる映画を見るようになって行ったのです。とにかく学生を映画館に通わせてしまう扇動力がものすごく、あのハスミが褒めるんだからどんだけおもしれーのだろかとバカな私もモロに影響され、剣道やりながらいつの間にか一年で300本の映画を見るような人間になってしまっていました。ビデオもDVDもない時代です。今思えばここが地獄の一丁目でした。

もう一つが同期の塩附の存在です。九州大分は竹田高校出の上段で、体格も顔つきも酒の飲み方も猛者にしか見えない印象でしたが、実際の彼はぴあやらビッコミ・スピリッツやらを学生服の小脇に抱え「にっかつロマンポルノは活気があってええのや!」とのたまう粋人で、彼と酒飲むことが多かった私は池袋北口にっかつやシネマ・ロサ、セレサというピンク映画の小屋にも通うようになり、「天使のはらわた・赤い教室」「赫い髪の女」など面白かった映画の話で盛り上がり、剣道の話も少しはしながら(本当です)、二人で酔っ払っておりました。

その飲み屋が「まさしげ」です。大学の隣のビルのちょっとだけ階段降りた左の端に当時「むらさき」というチェーン店の一つとして開店し、なんせ安かったのですぐに剣道部の我々一年坊の飲み助たちが通うようになり、あっという間にそこのおいちゃんおばちゃんと仲良くなりました。岡村正敏、レン夫妻です。私と塩附はそこでホールのバイトに雇ってもらい、稽古が終わって池袋戻った確か8時ぐらいから12時の閉店まで週2、3回、生ビールを運び、スペ酎を作ったりするわけです。まかないも食べられたし、酔っぱらわなければ店のお酒も飲ませてくれましたが、そんなことより最大の魅力はおいちゃんおばちゃんです。江戸弁が時折混ざるべらんめえのおいちゃんはフグ免許を持った板さんで、立ち居振る舞いは職人肌ながら胸の内にあったかいものがあり、随分離れた姉さん女房のおばちゃんは品がありそれでいて優しく、時に大胆で、酔ってロレツが怪しくなる可愛らしいところがある楽しい人。何より二人がお互いのことを好きで大切に思いながら一緒にいることがお客にも伝わるなんとも気持ちの良い店でした。同期の土浦・島岡も含め私は庄内鶴岡と田舎出の私たち3人は何故か気に入ってもらい、閉店後も居残ってはおいちゃんおばちゃんと一緒にロサ会館の裏あたりで焼肉やらトンカツやらごちそうになり、店のあるビルの上階にあったご自宅にそのまま泊まらせてもらうまでになっていました。お二人に子供はおらず、そんなことも影響したかもしれません。二人を慕って店には多くの常連さんが通って来ていて、中でも音羽から来る出版社の福田さんたち、また水道端にあった芸大予備校の絵の講師の秋山先生たち、そして厨房には「サンダカン八番娼館・望郷」と言う映画で撮影部だった宮川さんという方が焼鳥を焼いていて、おいちゃんは酔いが回るとご実家と確か遠縁の森繁久彌の話になり、おいちゃん十八番の森繁の「銀座の雀」を唸るようにがなり始めるという風でありまして、私らは夜の池袋でこんな文化・ゲージュツ・芸能的薫風を浴びるように過ごしていた訳です。私は当時観てガーンとやられてしまった薬師丸ひろ子主演「翔んだカップル」「セーラー服と機関銃」という二本の映画の影響で、相米慎二監督の元で働きたいと思うようになり、そんな夢をおいちゃんおばちゃんにももちろん話せば当たり前のように応援してくれ、よしこいつを仕事にしようと思い定めていました。この男は何をするつもりなんだろうと思っていた塩附は役者になると決め、卒業を間近に控えた冬に文学座の俳優養成所の試験に受かりました。私も塩附もおいちゃんおばちゃんとの出会いがその後の生き方を決定付けたのです。

「まさしげ」の表。後列左から岡村正敏さん(おいちゃん)、宮川さん、レンさん(おばちゃん)と私。1980年頃。
「まさしげ」店内にて。右から同期の塩附、一人おいておばちゃん、私。同じく1980年ごろ。
「まさしげ」30周年パーティー。右からおばちゃん、おいちゃん、私、左端が店に飾ってあった私の油絵を描いた桂川潤さん。2008年か。

念じれば叶うものなのか、フリーの助監督になって2年後、私は相米組で働き出しました。夏目雅子の出た「魚影の群れ」という映画を撮り終えたばかりの相米は、役者をとことん追い詰めるワンシーン・ワンカットと言う長回しの手法を駆使して傑作を撮り続けるスター監督で、誰もが一緒に作品を作ってみたいと思う天才。思いが実現して働けているのだからそれで満足かと言うと実はそんな事はサラサラなく、私もいつか自分で監督したいと思うようになっていました。全く人間は業が深い。当時映画界にはまだ徒弟制度の名残りのようなものがあって、助監督が監督になるためには段階がありました。演出部は普通4人でチームを組み、上からチーフ、セカンド、サード、フォースと呼ばれ、フォースはカチンコ、サードが美術・小道具、セカンドが役者回りと衣装を担当、チーフが肝心の撮影スケジュールを握る。この4段階を下から順番に上がってゆく修行時代に映画の作り方を身につけ、そんな姿をプロデューサーが実はよーく見ていて「お前もそろそろ一本撮ってみるか?」と声がかかると言う訳です。しかし当たり前ですがこの僥倖がフリーの助監督全員に訪れるわけでは無く、50代60代の万年チーフがゴロゴロいる世界でもあります。私は35才になる時に助監督廃業宣言をしました。そして書いた脚本を持ってプロデューサーに会い、「これを撮らせてもらえませんか?」とアピールして回るようになりました。相米さんからお話頂いたグリコポッキーのおまけのビデオドラマを撮ったりはしましたが、本編を監督できる見込みは立たず、焼肉屋で大量の網を洗ったりするバイトなどしながら脚本を書くという悶々とした日々が続きます。

そんな私を見ていてくれた人がいました。助監督廃業宣言とはイコール監督宣言であるわけで、監督であるからには一体どんな作品を撮りたいのかを明確に言えるべきだと考えました。これは当たり前で、何でもいいから監督したいだけの人間に映画を撮らせてくれる程業界は甘くない。しかし実はこれがものすごい難問で、脚本を書いてはこれじゃないかも知れないと思い直し、今までで一番感動した作品の共通項を洗い出したり、私の主人公はどんな奴なのか、アクションかコメディーかなどと考え出したらキリがなく、2年もかかって出した結論がこれでした。「夏の日にティーンエイジャーの少女がある人と出会う。二人は一緒にのっぴきならない経験をし、かけがえのない関係になる。しかしその人は何らかの理由でいなくなってしまうのだが、ある秋の朝目覚めてみると少女は新しい自分を発見している。」その頃私はある監督に頼まれた脚本を書いていて、そこのプロデューサーとメシを食ううちに「冨樫さんて、どんな映画撮りたいの?」と聞かれ、この話をしました。数ヶ月経ち、そんな話をしたことすら忘れた頃、そのプロデューサーから一冊の本を渡されました。「冨樫さん、これ読んで」読んでみて、驚きました。なんとその小説には私が話した内容と全く同じ話が書いてありました。表紙に「非・バランス」とあります。「これを一緒に映画にしましょう」こうして私の長編デビュー作は始動したのです。このプロデューサーは「学校の怪談」シリーズや「愛を乞うひと」などの傑作を世に送り出した木村典代さんと言う女性で、私とメシを食った翌日会社のみんなに「こんな話の小説を見つけてください」とふれて回り、原作を探し始めてくれていたのです。私にはそんなこと一言も言わずにです。映画「非・バランス」には坊主頭の塩附が森羅万象(しんらまんぞう)と言う芸名で、主人公の中学生が出会うオカマの菊ちゃん(小日向文世)の借金を取りに来るヤクザ役で出演してます。イイ味です。

映画「ひかる女」撮影現場。左端が相米監督、右から二人目が私。
映画「非・バランス」ロケにて。ヤクザ役の左・塩附(森羅万象)と真ん中の私。
映画「鉄人28号」撮影現場。演出中の私、左が薬師丸ひろ子、後ろが池松壮亮。
映画「おしん」の壮絶な撮影現場、笑。着物姿のおしん役・濱田ここね、後ろで指さしているのが私。

なんとか何本か続けて撮れるようになり「鉄人28号」を撮った頃、久しぶりに「まさしげ」に行きました。ホントに久方振りなのに、おいちゃんおばちゃんにいつもの笑顔で迎えられ、そしてカウンターを見て目を見張りました。ちょうど朝日新聞で「芸の遺伝子」と言う取材シリーズが連載され、私と相米慎二のことを書いてくれていて、芸能欄のその切り抜きを大きく紙に貼り出し店に飾ってくれていたのです。写真から赤ペンで矢印を引っ張って「こいつ、うちの元バイト」と言うキャプションつきで。なんとなんと。

しばらくして「まさしげ」は閉めることになり、お二人は湯河原にマンションを買って勇退です。そこにも何度かお邪魔する内に、おばちゃんのことがあり、おいちゃんもガンで同じ湯河原の病院にいるところを見舞いに行きました。お葬式でどなたかが「おいちゃんもやっと愛するレンちゃんの元に行けて幸せだ」と話していて、ホントにその通りだと思ったら涙が溢れました。塩附と二人、喪服で入った中華屋で飲み、帰り道彼が泣きながら長〜い立ちションをしたのをよく覚えています。出会いから40年の余が経っていました。

なんだか頂いたお題「あいつ今どうしてる?」にたどり着く前に紙面は尽きたようで、すいません。ちょっとだけ追加すれば、卒業後24年のブランクを経て再開した稽古が今私は楽しくてしょうがありません。先輩方には「お前らの代で最も続けそうになかった冨樫がな」と驚いたように言われますが、現役時代あんだけ嫌だっだ稽古がこんな楽しみに変わるとは私自身が多分一番思ってもいませんでした。人生いろいろあり、出会いも様々ありますね。