あいつ何してる?VOL.35【昭和62年卒 高松誠先輩】
二学年上の平塚保治先輩からのご指名で登場です。前監督で現在チェニジアで剣道指導中の土屋出先輩と同期です。懐かしいお話しも盛りだくさん。皆さんお楽しみください。
(以下、高松先輩のご寄稿)
剣道部入部時に3年生でいらっしゃいました平塚保治先輩からのご指名で寄稿する運びとなりました。卒業してから近況までの内容で書いてみたいと思います。
その前に懐かしい平塚先輩からご指名をいただいたことで当時のことがいくつか蘇ってきましたので少しふれてみたいと思います。
2学年先輩ですのでお付きになったわけでもないのですが、見た目からしてユニークな印象が強くありました。(別に悪い意味では無いです。風貌が豪快な感じなのです。)そして面白くて周囲を楽しくさせてくれる先輩でしたのでとても好きな先輩でありました。
新入生歓迎会や追い出しコンパでは諸先輩方や当時の監督をつとめていただいた嶋田文男先輩(昭和42年卒)の剣道形態模写を披露されそれはそれは大いに盛り上げていただいたものです。印象に強いものでは、嶋田監督の「ポンポンポン、コテ切ったー!」平野先輩の「ポン、コテ一本しょー!」坂西先輩の「ナカジョー!」(中條先輩を呼ぶ声)等忘れられません。
ある日の稽古前でしたが、先輩からこっちへ来いと言われトイレに連れて行かれ和式トイレにたまっている先輩の小便を見せられました。なんで私に見せたのか未だに分かりませんが、見たのは凄い血尿で結構びっくり。「わし、今こんなんや」と言われて。つまり腎臓が悪かったようでした。「あー」と言うのが精一杯でリアクションに困りました。その日の稽古で先輩と地稽古となり胴打ちがイマイチな私は先輩の腎臓付近の垂れを「ドー!」と思い切り打ち抜きまして「ヤバイッ!」。即効で「おまえ、わしを殺す気か!」と怒鳴られたことは言うまでもありません。血尿を見せた意味がアホな私には全く伝わらなかったのでした。
平塚先輩は普通の会社員にはならないだろうなと現役の頃からなんとなく思っていました。ポルトガルに行ったところまでは存じておりましたが、最近までそのまんまポルトガルと思っていました。もう線香1本あげることもできないのかぁ(生きてるわ!)などと思っていましたが現在は京都に戻り文章を書くことを生業とされているとのこと。そんな格好いい仕事をしている先輩にリスペクトが止まらない!です。(嘘じゃ無いです)そうだ、著書も買わないと。今度酒持って会いに行きますね。腎臓は大丈夫かな。本にサインしてくださいね!
そろそろ自分のことを書かないと磯野先輩にダメ出しされそうなのでここから本編入ります。
卒業後、損害保険会社に就職し東京の吉祥寺で3年、調布で3年、転勤し青森県弘前市で7年2ヶ月一貫して営業をしていました。弘前では津軽弁がわからず随分苦労しました。それなりに頑張っていましたが組織の中で働くことはとても窮屈なことだなと感じ、自立したい思いでリスクマネジメントのコンサルティング会社に転職し腕を磨いてコンサルタントとして独立しようと考えました。転職した1年後に退職した保険会社は債務超過になり吹っ飛びました。でも新たに入った会社の業績も年々悪くなり年俸も毎年下がるばかり。この国でコンサルティングにお金を払う文化は無いとわかり転職を決断しました。実家のある栃木県に帰り職を探しましたがなかなか無く、生活のため不本意ながら就職した地元のハウスメーカーで注文住宅販売や土地売買、アパート建設販売などしましたが、人生をかけた大きな商品の販売は簡単なものではなく、見切りをつけて友人の紹介で地元の漬物メーカーに再就職しました。スーパーのバイヤーと商談する毎日でした。1棟数千万円から1個何十円への商品変更でしたが売れれば返り注文が来るので少しは楽でした。そうは言っても所詮雇われの身です。田舎の中小企業ですから超ワンマン経営で社長とも反りが合わず、幹部社員は全員家族と親戚関連で占められ付け入るスキ間もありません。給与も以前からは雲泥の差。でも辞める勇気も無くこのまま60歳で定年を迎え給与が半分になっても仕事量はかわらず、65歳まで再雇用でこの会社で働くんだろうなとぼんやり思っていました。
54歳の9月だったと思います。働く意欲もわかず将来も悲観していたある夜に、ときどき見ていたBSテレビの「カンニング竹山の第二の人生はじめました」という番組を見ていました。主な内容は、私はこんな風に独立開業し活躍していますという番組です。正にこの時が転機になり今の仕事につながっています。
私は現在東京府中に本社があるクイックガーデニングという会社と個人で業務提携し、栃木で独立して植木屋をしています。会社は昨年創業20周年を迎えた東横インのグループ会社で関東、東海、近畿で事業展開しています。会社が顧客開拓をしてくれるので助かります。私は55歳からこの仕事をはじめたのでもうすぐ丸5年になります。元々我が家は今は亡き父が趣味で植木を庭に植えていまして30本くらいありました。高齢になり植木の管理ができなくなってからは私が仕方なく庭の手入れをしていました。そんな事もありこれなら自分でもできそうだと思ったのが最初です。それと体を動かすことが好きでしたので自分に合っているというのも選んだ理由のひとつです。
テレビを見た後早速説明会に行き、だいたい自分の思っている内容と一致していたのでやることを決めました。ちょうどタイミングよく栃木県エリアで1名の募集があったことも幸いしました。やることを決めたのはいいですが、漬物会社を辞めなくてはなりません。社長は人のことをボロクソ言っていたくせに、いざ辞められるとなると急に態度が変わり引き留めにかかりました。おかげで独立が予定より遅れてしまいましたがなんとか上手く円満に辞めることができ、社長も参加で送別会をしてもらえました。そんなことならもっと大事に扱っときゃよかったのにねえ。ついこの間も「戻ってこないか?待遇良くするから」なんて電話ありましたが丁重にお断りした次第です。
植木屋を始めて良かったことは残業なし、事務処理なし、会議なし、休みは自分の都合次第ということですね。ひとり親方ですから基本すべて自分次第です。稼ぎたければ仕事をたくさんやり、遊びたければ休みを取る。ほとんどの仕事はその日に終わり翌日以降はまた別のお客様に行きます。何日もかかる場合は人を雇って手伝ってもらいます。仕事内容は一般家庭の庭木の剪定、伐採、抜根、草刈り、芝刈り、消毒(虫や病気)、植栽、ゴミ処分などです。
はじめのうちは難しいので同じ会社の先輩の現場に行き教えてもらったり、会社の研修で教わったりして少しづつできるようになりました。去年出来なかった難しい作業が翌年はできるようになったりして徐々に技術は上がってきました。木は毎年成長するのでリピーターが増えます。今はお客様の半分以上はリピーターになっています。作業が終わって最後に確認のサインをいただきますが、その時に「本当にさっぱりして良かった。またお願いします。」と言われることがやっていて良かったと一番思える瞬間です。お客様によっては作業料金とは別にお菓子やビールをいただいたり、お気持ちを包んでくれる方もなかにはいらっしゃいます。昔は金持ちが植木屋に庭一式を頼み格好良く毎年手入れするのが主流だったと思いますが、私が依頼を受けるお客様の特徴は、高齢になり自分で出来なくなった方が剪定や草刈りを頼むとか終活で木を伐採するとか空き家の庭終いなどが多いです。時代が変わったんですね。
この仕事の大変なことは、当たり前ですが肉体労働ですので非常に疲れます。簡単に言えば3K職場ですからきつい、汚い、危険。始めて2ヶ月くらいたった頃に慣れない仕事で疲れて免疫力が弱くなったからだと思いますが、だるさが取れず調子悪いなと思っていました。突然高熱が出まして病院に行きましたが、ちょうどコロナが始まったころで熱があると他の病院を紹介され診てくれません。3軒目の病院に行く時は熱があることは話さなかったので診てくれましたが、体温計で測ると40度近い。すると一旦外に出てから救急外来の入口から入ってと言われ、行くと全員完全防護服になってました。映画「アウトブレイク」の世界です!すぐにコロナの検査をしましたが、当時はすぐ結果が出ず、金曜日の夕方だったので月曜日の午後まで結果を待たねばなりませんでした。ほんとに不安で仕方なかったのです。幸い陰性とわかり肺炎も入院せず薬で治すことができほっとしました。仕事に復活するまで2週間、当然収入は途絶えましたので自営業とはこういうことかと思い知りました。
そんな大変なこともありますが、やはり私は今の仕事が自分に合っていると感じています。私には仕事の三訓があります。安全第一、笑顔を忘れず、無理なく永く苦にならないように、です。私の仕事は定年がありません。健康に気をつけていればずっと出来ます。仕事量は体力に応じて減らしていくと思いますが生涯現役を目指していこうと思います。
剣道についてですが、ほぼやってません。ほぼとは、年に1回恩師と地稽古をやるからです。小学校6年生から道場で稽古を始めましたが、本格的には中学校で部活に入り毎日稽古してからです。当時は5年後に最初の栃木国体を控え、県が強化をはじめたころでした。私が中学入学の年に国士舘大学を卒業し新規採用で来られたのが恩師佐藤哲通先生で現在は栃木県剣道連盟副会長をされています。この中学時代に剣道の基本、試合の勝負感、勝利の喜びを得ました。先生は上段の名手で大学時代は全日本大学剣道大会で準優勝、その後栃木県代表で全日本選手権大会にも出場されています。先生の剣道の教え子有志でつくる佐藤会というのがありまして、毎年お盆休みに集まり、昼に稽古、夜宴会をしています。その時だけは防具をつけるようにしています。2つ後輩に栃木県警察の師範をしている高濱八段がいまして佐藤会で稽古しますが、普通いくら後輩でも八段なら基立ちしてもらいこっちは掛かりますよね。でも佐藤会だけは私が基立ちで高濱八段を下に稽古するんです。私が「それはだめだ」と言っても彼は私が基に立たないと稽古してくれません。仕方が無いので佐藤会だけだからな!といって稽古します。なんかそんな先輩後輩の関係っていいなと思ってしまいます。
来年はチュニジアから土屋君も戻って来るので無事帰還のお祝いと久々の稽古やりますか!しっかり仕上げとくからな。待ってろよ!
最後にこれからのことについてです。
還暦を過ぎてはや1年経ちました。今の仕事も楽しいし大切なことではありますが、遊びも外せません。元気なうちにやってみたいことをできるだけやりたいと思います。植木屋の仕事が軌道に乗ってきた3年ほど前に何か新しいことをしたいと思いピアノを始めました。娘が20歳まで弾いていたヤマハのアップライトピアノが埃をかぶっていたのでそれを使い、ヤマハ大人のピアノ教室に通っています。やる気だけはあるんですがなかなか上達しません。左右の手がちがう動きをするなんて!アンビリーバボーです。上達したら全国各地に置いてあるストリートピアノを弾きにいきたいものです。
旅行にも行きたいと思い日本一周を企みまして、車中泊できる軽自動車を注文してしまいました。これなら多少安く行けるかな。遠方にお住まいの先輩方や後輩の皆さんにもお会いして旧交を温めたいです。
そしてまた大学の道場で稽古したいと思います。もう何年も行ってませんのでちょっと敷居が高いんですが、住んでいる栃木県からはそう遠くはないので行きたいと思います。道場でお会いできましたら、皆様どうぞお手柔らかによろしくお願い致します。
何はともあれ健康でないと何一つ出来ませんので健康第一、安全第一。皆様方もどうぞ健康で楽しい人生を楽しみましょう!
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