あいつ何してる?Vol.23【昭和48年卒 法月正行先輩】打木先生や懐かしい先輩方の若かりし頃の写真が!

 昭和44年3月、大学入学前に立教高校出身の平田(主将)・堀口(故人)らと千葉鴨川の春合宿に参加し、剣道部員としてスタートを切りました。高校と違い大学の剣道部に戸惑い、驚きながらも何とか無事終了しました。

 大学での新生活は、4年生の川角先輩の紹介で、昔、成増養心館の師範をされていた瀧澤愿先生の自宅に下宿し、大学・道場にと通いました。昭和44年6月8日(当時1年生)に志木の富士見グランドに紫光館が完成するまで、立教中学校の道場等で稽古に明け暮れていました。

東大安田講堂事件の影響もあり、我が立教大学も大学紛争に巻き込まれ学校はバリケード封鎖されロックアウト。1年生の時は全く授業が出来ない状態でした。講談社の野間道場にも稽古に出かけました。紫光館へは午後の授業が終わると東武東上線で志木までそこから富士見グランドまでバスを使うという不便なアクセスでした。稽古後は池袋に戻り20:00過ぎから夜の街へ繰り出し、同期11名(内女子2名)と飲み語り合い青春を謳歌しました。その店の1軒が今も残っている、ロサ会館2階にある「おでん やま」です。当時はまだ劇団の研修生だった渡辺えり子がアルバイトで働いていて我々の面倒を見てくれました。それが今や大女優。びっくりです。今年2月大学卒業50周年の集いのパーテイの後、皆で店に行き昔話しに花を咲かせました。楽しい1日でした。現役時代の思い出はつきませんが、1年生の時の関西遠征・3年生の時の北海道でのオールミッション大会・仙台合宿は特に感慨深いものがありました。同期の女子2人もよくついてきてくれて皆そろって卒業できたのは、なによりの財産であります。

 4年間の大学生活を終えて、就職・・・・応援団の先輩の声賭けで旅行会社の「東急観光(今はトップツアー)」に入り社会人としてスタートを切りました。地元静岡支店配属となり4年間の東京での生活が終わり、それでも東京が懐かしく、しばらくは休日のたびに上京し同期のねぐらに入りこんでいました。

仕事は修学旅行受注の為の学校へのセールスで剣道部の利を生かし体育課の剣道部顧問へ足繁く通い、受注につなげたものです。営業に添乗にと忙しい日々が続き、剣道の出来ない時期があり・一時離れていましたが 打木部長から卒業しても「永遠のマネージャー」と言われ現役が清水に合宿に来てくれた10有余年共に稽古をし、地福師範・打木部長と旅館「万両」で語り合った事を本当に懐かしく思い出されます。

 剣道を本格的に再開したのは、榛原郡吉田町で養鰻業を営んでいた亀山氏(亜細亜大卒)との出会いでした、知恩剣修館(井上 義彦範士八段)を紹介され・入門を許されお互い稽古し、酒を飲み、友好を深め、多いに勉強させられました。

先生は「地方の利」と言うことをよく話されていました。都会と違って一度信頼を得れば本当の師弟関係というものを築き易い、これが地方の剣道家の大きな特徴であり、進むべき道ではないかと言われました。中央には無い地方の良さもあるかと思い、今も田舎の道場で汗を流させていただいています。その縁あって七段にも昇段し又静岡県剣道連盟の監事を永く勤めさせてもらいました。その間、静岡で開催されていた・全日本女子選手権・国民体育大会・ねんりんぴっく・東西対抗等数々の全剣連の仕事にも携わらせていただきました。

現在は焼津市剣道連盟会長・焼津市武道協議会会長を受け微力ながら地域の剣道の発展の為頑張っています。又 年に一度2月ニュージーランド・オークランドで行われている剣道セミナーに参加し、多くの外国人剣士と交流しています。非常に楽しく有意義で体の動く限り出かけて行きたいと思います。

 家族は5人の孫にめぐまれ それぞれ東京と埼玉で生活していますが、焼津に来た時は本当に可愛い子達です。誰か剣道をやってくれればと・・・・

良き師・先輩方に出会い、仲間・剣友・後輩に恵まれ素晴らしい剣道人生を歩んでいます。これからもずっと竹刀を持ち続けて行きたいと思います。

 紫光会の益々の発展を祈念します。

    昭和48年卒業  法月 正行

同期との会合
オークランドでの審査会 *左端は今月の剣窓に投稿している元南アフリカ剣道連盟会長バスター セフォー氏 その隣は元NZ剣道連盟会長グレアム セイヤー氏
3年時北海道へ *青函連絡船にて同期左雨と
昭和48年卒業時 *大学喫茶部の方と
昭和47年春合宿 於 藤枝東高等学校
昭和47年 長野合宿