あいつ何してる?Vol.20【昭和44年卒 飯田益朗先輩】*元紫光会会長、重鎮登場!

「剣道部に入りたいのですけど。」

この一言から立教大学体育会剣道部女子の歴史が始まった!

現池袋キャンパス4丁目交差点の周りは、満開の八重桜で華やいでいた。

昭和43年4月、おりしも体育会、文化部を問わず、新入部員獲得のオリエンテーション真っ盛りの時期であった。

剣道部のブースでは、小生と同期の政所氏で新入部員募集に熱を入れていた時、二人の前に

可愛らしい、楚々としたお嬢さんが立ち止まった。剣道をやっているようには見えないし、まさか、剣道部に入りたいとは言わない雰囲気だった。ところが冒頭の言葉である。

二人とも全くの想定外の発言に「びっくり!!」。そして「入部有難う」と言いそうになったが、危うく思いとどまった。そして二人で「無理だよなー」と。

それからが大変であった。それは、入部勧誘ではなく、入らないように説得することだったから。入部お断りの理由として次のような事を話した記憶有り。

 ・創部以来女子の部員はいないこと

 ・剣道場には女子用の設備が全くないこと(更衣室、トイレ、お風呂、洗面所等)

 ・剣道未経験者であり、剣道の厳しい稽古に向かない。

   (東洋英和女子高等学校卒業でお嬢様タイプに見えた)

 ・剣道部の先輩方の猛反対があるであろうこと

しかしである。彼女の意思は強固であった。

 「いろいろとお話し頂きましたが、私はどうしても剣道がやりたいのです。そのためには

女子としてではなく、男子部員同様に対応いただいて結構です。ご迷惑はおかけしませんし、

4年間やり遂げますので、是非とも入部させて下さい。」

素晴らしい意思表示であった。政所君と二人感銘した。そして二人で相談の上、入部の方向で検討することとした。最終的な理屈は「立教大学は自由の学府で有る。」

女子入部の件は、」想定通り、先輩方から強烈な反対が上がったが、自由の学府を盾に押し切ってしまった。目出度く女子部員のパイオニア入部である。宣言通り4年間やり通した

その名は中森和美さん(現林さん。今は孫に囲まれて素敵なばーばをやっている)

同期の男性部員から嘆きの声があった「先輩勘弁してくださいよ。やりにくくて」云々。

中森さんの入部がきっかけとなり、徐々に女子部員が入るようになった。そして、2019年秋の第38回全日本女子学生剣道大会で見事な優勝を飾り、今や強豪校の一角を占めている。これも、中森さんの頑張りのお陰かもしれない。これからの女子部員の益々の活躍を期待したい。 

小生と剣道について少しだけ思い返してみたい。

小生と剣道の出会いは、高校1年の時である(埼玉県立川越高校)

中学時代はブラスバンド部(アルトサックス)だったので(誰も信じないが)、高校でも続けたいと思っていたが、ブラスバンド部は無かった。そこで、父から勧められた剣道部に入部することにした。3年生2人、2年生3人のこじんまりした部であった。ところが、小生の同期生が15人ほど入部し、一挙に賑やかな部へと変身した。そして、特筆すべきことは、顧問として東京教育大(現筑波大)を卒業したばかりの豊島正夫先生(浦和高校、東京教育大)が顧問に就任されたことである。元気溌剌の猛烈先生だった。剣道初心者である小生は、竹刀の握り方からはじめて、高校3年間しっかりご指導頂いた。中でも、2年生時の11月14日(修学旅行終了日の翌日)から2月22日までの「百日寒稽古」は強烈だった。毎朝7時から8時の1時間稽古を百日間続けた。22名の部員全員が、1日も休むこと無く終了した。小生は大和田町(現新座市)から東上線で通っていた。毎朝5時過ぎに家を出て、砂利道6キロを自転車で志木駅まで走った。晴れの日、雨の日、雪の日も、、、。

百日寒稽古のお陰か、3年時の関東大会埼玉県予選で団体優勝を飾った。(小生補欠)

大学剣道部に入り、厳しい稽古をつけて頂いたが、高校時代の経験が役立ち、頑張ることが出来たのだと思う。でも、1年生時、4年生のⅠ先輩のむかい突きは厳しかった。

当時は、東上線上板橋の近くに大学のグランドが有り(東京都から借りていた)その傍に剣道場が有った(4年生時に都に返還)今の剣道部の雰囲気と全く違っていたので、思い出しながら記してみたい。

まず服装は学生服に学帽であった。学生服は一見堅苦しいように見えるが、毎日何を着て行くか考える必要はなく、かつ、冠婚葬祭等どこでもOKであり非常に便利であった。

二年生時鴨川合宿帰り、鴨川駅にて。左端は笹岡先輩。ヤクザの集団か?迫力満点。

次は礼儀と挨拶である。これは厳しかった。道場内は当然として、道場外の何処にても、先輩を見かけた遠くからでも、大きな声で「こんちわ!」と挨拶が必要で有った。欠礼すると、道場での正座説教が待っていた(足が痺れて大変だった)。今は考えられないことと思うが。正座説教で1つエピソードが有る。1年生時、何が原因か思い出せないが、2年生から正座説教が有った。足の痺れがきつくなった時、突然「プー」続けて「プー」落合氏(立教高)

が大きな屁を放った。これには先輩たちも大笑い、屁ひり説教終了事件であった。その落合氏も今はいない。

小生の同期は9人。落合、遠藤、政所、木村、轟(立教高)篠原(千葉東高)鴻巣(土浦1高)下斗米(盛岡1高)鈴木(安房高)の各氏であるが、この中で、篠原、落合、木村、轟の各氏は鬼籍に入ってしまっている。

一年生時。大学剣道場にて。下斗米氏入部前。前列右端は落合氏。
一年生時夏合宿、新潟大学にて。地福先生、雨宮先輩、打木先生のお姿も。

大学時代剣道において何も実績は遺せなかったが一つだけ強烈な忘れられない思い出がある。4年時の関東学生個人戦、4回戦を勝てば全日本の出場権獲得と記憶している。その4回戦で初段の選手(独協大市瀬氏・・今でも忘れられない)に延長戦の末敗退。情けなくて応援席へ戻れなかった(小生4段)。

二年生時夏合宿。甲府にて。前三人は三年生。
二年生時郡山夏合宿。
三年生時、夏鴨川合宿。

就職は当時大学剣道部コーチであった矢野先輩(当時日産火災勤務)の勧めで、住友海上(現三井住友海上)へ就職。早稲田OB の岡田先輩が立ち上げた剣道部が有り(早稲田大学剣道部主体)、そこで少し活躍出来た。不思議なもので、大学時代の怖い先輩方から解放されたせいか、試合に自信が持てるように成った。戦績を少しだけ紹介させて頂くと、損害保険剣道大会4段以上個人戦1度優勝、はじめて関東実業団団体戦3位入賞時、先鋒で6戦全勝オール二本勝。28歳で札幌へ転勤時まで頑張った。札幌勤務時代の30歳時に大きな交通事故に遭い両膝の皿を負傷し、7ヶ月休職し治療に専念。昭和54年3月に本社へ戻り営業へ復帰した。その後痛いのを我慢しながら、少しずつ稽古をはじめ、今は普通に試合も出来るように成った(正座は出来ない)。80キロ以上の居眠り運転で正面衝突をされたにも関わらず、死なずに済んだのは、剣道のお陰としか言いようがない。まさに「剣は身助ける」であった。

現在、三井住友海上剣道部に大学剣道部の後輩たちが十数名おり、文武両道で頑張っている。

小生、11月18日(ミッキーマウスの誕生日)で77歳になった。これからも立教大学体育会剣道部魂で剣道を続けてゆくと同時に、定年後に始めたブルーベリー摘み取り園(500坪に約200本を植え、完全無農薬栽培)を出来る限り続けて、いつまでも元気な年寄りでいたいと思う。

最後に、腕白な小生を我慢してご指導頂いた先生方並びに諸先輩方に感謝を申し上げるとともに、立教大学体育会剣道部の益々の発展を祈念いたします。